京都新聞 口丹随想(1)
小林和子 (掲載日 1996.11.17.)
見出し:大学で教えること
京都から鍼灸大学前駅までの山陰線からの景色も秋めいてきました。秋は大学も学園祭や前期試験、大学院の入試など結構行事が多いのです。でも、私は行事よりも学生たちの姿そのものに目が行きます。久し振りに出会った学生に「先生、就職が決まりました。来年卒業できそうです。」などと話しかけられてその姿にハッとさせられることがあります。この人、こんなにかっこ良かったかしらと驚かされるのです。もちろん男女にかかわらずです。教師と学生との間が評価する立場と評価される立場にある場合には、学生の容姿について話題にすることは控えるべきですが、どの学生に対しても同じように感じるのです。そして、この気持ちは少し複雑で例えてみればこんなふうです。
花の苗をもらって初めは大切に世話をし、また毎日楽しみに眺めています。しかし、時がたつにつれ次第に間遠になり、いつ花が咲くのかも忘れていたころ何気なく見ると、花芽がいつのまにかついて咲く気配をみせています。それに気づいた時の気持ちに似ています。もっと世話をしてよく見ておけばよかったのにという少しうしろめたい気持ち、よくここまで育ったなあという気持ち、なまじ妙にいじってダメにしなくてよかった、あるいは既に悪い影響を与えていたかもしれないが無事に育ってよかったというような気持ちが入り混じるのです。 それから、私は何か役にたつことをしたのだろうかと思うのです。
専門分野の知識が必要だから、あるいは必修科目だから教えたのだといえばそれまでです。しかし、専門知識を効果的に教えることが最優先で、教える側の人柄などはあまり関係ないとすれば、教えるべき内容が変わらなければ誰が教えても同じかもしれません。内容も教え方も話し方も最も吟味されたものをコンピューターやビデオで学んだ方が学生にとってよいのでしょうか。でも、もし教師が役者のようなものと考えれば、演じる人が代われば伝わるものも異なってくるはずです。よい舞台役者は同じ演目を何度演じても納得がいかないと言いますが、ある程度確立された考え方を教える場合には、最先端の情報を教える場合よりむしろ教師のキャラクターがより重要になるかもしれません。ただし、こちらの熱意が前面にでると学生はかえって腰が引けるようです。以前は意志と努力だけでほとんどのことができると思っていたので、怒りを感じたこともありましたが、最近は自分が自分で思っていたほどまともではなく気分屋かもしれないということに気がついて、許容度が大きくなりました。気の毒だし聞いてあげようかという同情の表情を浮かべて私の講義を聞いている学生の姿を認めつつも、また悪あがきと思いつつも試行錯誤を続けているのは、その時に、熱血教師のような濃いものではない、さらりとしたつながりが感じられて、もう少し続けてみようという気持ちになるからなのです。
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