京都新聞 口丹随想(12)
小林和子(掲載日 1998.8.30.)
見出し: 仏の顔も三日
今年の夏は、ぎっくり腰との戦いで終わってしまいました。以前から腰痛持ちでしたが、七月半ばに一度ギクッを経験した後、十日ぐらいたって二度目のガクッというひねりを経験してしまい、身動きがとれなくなってベッドに寝転がったまま、寝返りも打てない状態で苦しんでおりました。心は、以前から不動の姿勢でしたが、身体が自分の意志と関係なく、不動になったのです。
症状としては重症なのですが、本人の深刻さと周囲の受け取り方にギャップがありました。経験したことのない人にはわからないというだけでなく、ぎっくり腰という名前がよくないのでしょうか。「気の毒に」と言いつつも、妙に笑いをこらえている風があります。私の母などは、へっぴり腰と呼んでいるくらいですし、先生方(一部の)からは「運動不足ですよ」の一言で一蹴されたのです。でも、事務局のKさんは心配して鍼灸治療を受けるように勧めて下さいました。今まで継続的には鍼灸治療をしていなかったのですが、今回はそのお陰で痛みが和らぎ、血行がよくなって胃腸の調子までよくなりました。痛みは気力を萎えさせるので、痛みがなくなると本当にほっとします。
一時は、このまま動けなかったらどうしようと本気で心配しました。というのも、身体が動かないということは、自分の身の回りのことができないということですから、人に頼まないといけないのです。いつもは、自分のことだけでなく親や子供のことまで考えている世代だと思っていたのですが(思うだけで実質的にはやっていませんが)、自分が家族の世話になる立場におかれたわけです。始めは、子供たちもこちらを気遣って食事や買い物などを引き受けてくれ、私も感謝の気持ちを伝え、思いやりの交換が行われていたのですが、しかし、お互い仏の顔も三日までです。私としては、たまに少しくらい家事や病人の世話をしてくれてもいいだろう、まだ三日じゃないと思うのですが、世話する立場では、もう三日もやっているのにいつまで続くのだろうと思うらしいのです。私も痛くて動けないとはいうものの、口は健康なわけですから余計なことを喋ってしまうわけです。それに、じっとしているとだんだん感情の喜怒哀楽の喜と楽が抜け落ちて、怒と哀だけが残ってくるのです。また、こういう時に限って、部屋の掃除とか衣類の整理とか普段は放っておくことが妙に気になったりするわけです。もう少し喋るのをやめてしおしおとしていれば、もっと同情されるのにと言われるのですが。
今まで、人の世話をするのはたいへんだと世話する立場だけで考えていましたが、世話される立場もたいへんだなと感じたのでした。自分のことが自分でできるように、また、自分の身体は自分で守るということを本気で考えなくてはならない年なのだと思ったのです。
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