京都新聞 口丹随想(14)
小林和子(掲載日 1998.12.20.) 
見出し:年を重ねること

今年も終わりに近づきました。寅年生まれの人はどんな年を送られたのでしょう。

二十年以上前に米寿を迎える間際に亡くなった祖父がいますが、寅年生まれでした。祖父が亡くなった時に、親しい方々が思い出を書いて下さったものを追想録としてまとめたものがあったのですが、その当時は若かったせいもあって、ほとんどまじめに読まずに本棚の奥にずっと置いたままにしていました。先日、なぜか突然目にとまったので読んでみたのです。その中に、親父の思い出として父が書いた短い文章がありました。「親父ほど雑多な仕事をした人も少ないのではないか、一通りやりたい事はやっているが、どれが本当の親父の姿であるのかよく判らない。」と書いていました。子には家での親の姿しか知ることができないのです。また、祖父はかなり多くの人達との付き合いがあったらしいので、父が幼い頃、「親父は夜遅く酔っ払って帰って来るものと思っていた」とも書いていました。父は、自分では祖父と違って家族と過ごす時間を大事にしていると思っているようですが、弟が小学校の社会科のテストで、父親の仕事として宴会と書いて先生から三角をもらっていたことを考えると、祖父と似たようなことをしていたのかもしれません。また、「叱られたのは只一度だけで、小学校に入って間がない頃、友達とけんかして泣いて帰った時、泣いて帰るような奴は家に入れんと言われて家に入れてもらえなかった。でも、それ以来、親父に泣き言は言うまいと覚悟を決めて言ったことがない、自分の事は自分で責任をとるようになった。」とも書いています。親はあてにならないと思えば、却って子供はしっかりするのかもしれません。父と祖父とは、お互い干渉しない淡々とした付き合いのように思えましたが、「裏では色々心配して手を打ってくれたようだと感謝している。」とも書いていますから、亡くなって始めて本当に感謝する気持ちになるのかもしれません。

これまで、子として孫としてしか父や祖父のことをみていませんでした。父の人生、祖父の人生はどんなふうだったのかと深く考えたことはありませんでした。この文章を書いた当時、父は五十歳頃だったと思います。私も、あと数年すればその年齢に近づくと思うと、感慨深いものがあります。

毎日慌ただしく暮らしていると、まるで曲芸の皿回しをしているようです。細い棒の先にお皿を乗せて落ちないように回すのですが、一枚目を回し、二枚目を回して、三枚目、四枚目、最後の五枚目を回してホッとすると、一枚目が落ちそうになっているので急いで回す、また二枚目、三枚目と回し続けなければ、落ちてしまいます。終わりがないエンドレスです。いつも時間に追われています。年をとるにつれてお皿の数が増えてきますが、欲張ると落として台無しにしてしまいます。でも、落とす前に自分で降ろせば壊れないのです。お皿は皿回しに使うためにあるのではないのですから、食べ物を入れてもいいし、飾って楽しんでもよいのです。そう思えば、少しずつ自分の身の回りを整理して身軽になることが、年を重ねることではないかと思えるのです。

 目次に戻る