京都新聞 口丹随想(17)
小林和子(掲載日 1999.7.4.) 
見出し:仏の顔と鬼の顔

先日、通学途中の寝不足気味の学生たちに出会ったので、具合を尋ねると、毎日リポートの提出に追われてたいへんだという話になりました。そして、その学生たちは私のことを「先生は仏ですよ」と言うのです。私の担当する科目の負担が少ないという意味ですが、「仏と言われては生きた人間ではない、私も年をとったものですよ」などと、いっしょにいた友人であり同僚でもある先生に話したところ、「その仏の顔の後ろが問題です」ということばが返ってきました。私も思わず、「仏の顔の後ろから、いつ鬼の顔が出てくるか、ヒヤヒヤしているんですよ」と応じて、お互いの顔を見て笑ったのです。さすがに、仕事がら、人間の真の姿をよくご存じです。

また、最近、こんなこともありました。卒業ゼミの学生が、私の担当科目の試験問題を見つけたら下級生に売れるかなと、友人に冗談で話したら、私の科目はそんな危ないまねをして試験問題を買わなくても合格できるから必要ないと、一笑に付されたと報告してきました。そして、「試験が易しいというのはゼミ生としてはくやしいから、今年から厳しくして、単位を取らせないようにしたらどうですか」などと勝手なことを言っています。自分の時の試験は易しい方がよいけれど、他人に対しては厳しくしてほしいということでしょうか。

私は、やるべきことをしていれば大学の試験は合格するのが当然だと思っているので、わざと厳しくする必要はないと思っているのです。大学は学生がいなければ成り立ちませんから、お客である学生に鬼の顔ばかり見せていては、いなくなってしまいます。といって、付加価値をしっかり身につけて卒業してもらうには、仏にばかりはなれないしといったところです。イソップ童話の北風と太陽という寓話にあるように、どうすればこちらの意図するように行動してくれるかということは、昔から人間を悩ませてきた問題です。私の学生時代に、仏と鬼を年ごとに繰り返しておられた先生がおられました。ですから、その先生の講義受講者は、何年かおきにたいへん多くなったり少なくなったりしていました。今となってみれば、その先生も多いに悩んでおられたのかもしれません。

やさしくすればつけあがるし(ほめられた言い方ではありませんが)、厳しくすれば拗ねるというのが、人の本性なのかもしれません。ならば、仏の顔ばかりではなく、時々鬼の顔も見せなければいけません。もっとも、強いて作為的にしなくても、仏の顔ばかりでは人間ではないわけですから、普通は仏が疲れて自然に鬼と選手交代するのでしょうが。ただ、いつ、どこで、選手交代して鬼が出てくるか、本人に予想できないのがいささか心配です。 

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