京都新聞 口丹随想(23)
小林和子(掲載日 2000.6.28.)
見出し:大義名分がほしい
年度始めの四月から三ヶ月経って、そろそろ疲れを感じている人も多いのではないでしょうか。何でこんなことをやっているのか、意味があるのかと自問自答することもあるでしょう。何事も一度始めたら、三日、三ヶ月、三年と三の倍数は続けなければいけないといわれています。子供のころ、ピアノを六年間くらい習っていたのですが、練習をしないで、先生がみえる当日だけ弾いていました。「継続は力なり」といいますが、いっこうに力にならなかったことを覚えています。やらないよりはましですが、練習しないで本番だけというのではやはり無理です。やめたほうが時間もお金も無駄にならなかったのでしょうが、「やる気がなくなった」というような理由では言い出しにくく、また、一週間に一回だけでもやらないよりはうまくなるのではないかと思って、やめるきっかけ、つまり大義名分を見つけられずにだらだらと続けてしまいました。言い出せないままに続けていると、知らない間に三の何十倍かの間、継続することもあります。でも、継続するのがよいのかわるいのかは場合によりけりでしょう。
大義名分という言葉は、ずいぶん昔の言葉のように思っていましたが、大儀名分がないと、人は行動を起こしにくいようです。何かを始める時にはやりたいという気持ちさえああれば大義名分はさほど必要ありませんが、何かをやめるとか、休むとかいう場合には必要かもしれません。たとえば、疲れたから休みたいと思ってもそれだけでは休めないこともあります。本当にしんどくて倒れる寸前なのに、なぜか倒れないという場合は悲惨です。たいていこういう時は、自分より先に他人が倒れてしまい、ますます休めなくなるということが多いのです。いっそ病気にでもなれば休む口実もできるのでしょうが、病気なら何でもいいというわけにはいきません。以前私がぎっくり腰になった時は、身動きがまったくできませんから休むしかなく、大義名分はありましたが、二度と経験したくありません。病気になるなら、病気を選んだほうがいいです。
「やりたいならやればいいし、やりたくないならやらなくてもいい」わけで、自己管理は自主的にすれば良いのです。しかし、「自分の好きにしたら」といわれると、かえって迷ってしまったり、「好きでやっているのではない」と反発したくなるようです。確かに、ボランテイアでやっていることでも、「好きでやっているんです」と本人がいうのはいいですが、他人から「好きでやっているんだからいいのよ」といわれたら、やはり気分を害するかもしれません。また、学生には「講義が易しくてよかったね」とか、「時間がいっぱいあっていいね」と言っても、素直に喜びません。「授業が厳しくてたいへんね」とか、「科目が多くて遊ぶひまがないわね」とか言うと、案外うれしそうにしたりします。皆が納得できる大義名分がないと居心地が悪いらしく、楽ではないということを主張しますから、おもしろいです。
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