京都新聞 口丹随想 (3)
小林和子 (掲載日 1997.3.16.)
見出し:ないものねだり

三月は、卒業や就職、転勤や転職などこれまでやってきたことに一応の区切りをつけて次の舞台に移る季節です。これでいよいよおしまいだと思う時に、やるべきことはしたのだから思い残すことはないと思う人もいれば、あれをしておけばよかった、これもしておけばよかった、とやり残したことがあるような気持ちになる人もいると思います。

望みが次々にでてくることは悪いことではありません。しかし、その望みかたは人によって差があります。自分のために自分に期待する人、自分のために他人に期待する人、他人のために自分に期待する人がいると思います。結果が望んでいたものではなかった時にその違いがよくわかります。自分のために自分に期待する人は自力でやっているので、自分なりに努力した結果、自分には得ることができないものがあるとありのままの結果を認めることができます。つまり、求めていたものは、ないものねだりだったとわかることができます。ところが、他人に期待する人は、自力でやっていませんから、どれほどの力が使われたか知りませんし、ありのままの結果を認めることができません。望むことだけが大きくなり、ないものねだりだと認めません。悪いことは自分以外のせいにして結果に責任をとりません。他人のために自分に期待する人は、ありのままの自分に自信がないので他人の価値観に合わせすぎて自分の居場所を見つけられません。独自の判断基準が持てないので、他人と比較して羨んだり自分を責めすぎて自分の存在を見失ってしまいます。努力の結果、得たものが望んでいたものではなかった、あるいは本当に自分の求めていたものは手に入れたものとは違っていたとわかることが大切です。自分にないものがわかるということは、自分にあるものがはっきりわかるということです。

人も含めて生物も無生物も原子という積み木をさまざまに組み合わせてできた作品のようなものです。積み木の作品を作るのに労力を必要とするように、物質は各々固有のエネルギーを持っています。ある物質が別の物質に変化する反応が式では矛盾なく書けても、実際に反応がおこるかどうかは、お互いのエネルギー準位によって決まります。しかも、自発的に進むタイプの反応でも、物質の何%かは反応しないで残ったり、別ルートの副反応を伴ったりします。同じエネルギー準位にある全く同じ構造のものが、時間も場所も同条件で存在していても、異なる選択をするものがあるわけです。人のように個体に違いがあれば、同じふるまいをする方が不自然かもしれません。

理想モデルに無理に似せる努力をするより、現実の姿をありのまま認める努力をする方がずっと自然だと思います。自分のために自分に期待することは、生まれながらに持っている固有のエネルギーの位置を知って反応が自発的に進む方向を探すことです。自分なりに努力して結果をだしたあと、その望みがないものねだりかどうか見極めることが自分を見失わないことだと思います。

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