京都新聞 口丹随想(4)
小林和子 (掲載日 1997.5.11.)
見出し:才能ものと修行もの
五月の爽やかな風と晴れた空が、私は一年で一番好きです。この時期になると、何となくうきうきした気分になって新しいことを始めようと思います。そんな時、やろうと思うことが自分にとって才能ものなのか、修行ものなのかを考えることがよくあります。
私の勤務先には料理や食材に造詣の深い人が多く、例えば、しょうがの土上に出ている部分はみょうがと見分けがつかないくらい似ているけれど食べられないというようなことを話されます。栄養さえとれていればSF小説に出てくる宇宙食でもかまわないと思っている私は、料理に対する情熱や才能に違いを感じるのです。
才能ものは、もともとその人に備わっているものですから、むりやり身につけるものではありません。あまり苦労をしなくても上手になれるし、楽しみながらできます。周囲も、誉めさえすれば本人が自然に伸びていくのですから、楽です。それに対して、修行ものは、本人には備わっていないが、生きていくために最小限必要なので身につけるというものです。だから、相当の時間と努力が必要だし、苦労も大きいのです。どうしてもやらざるをえない状況に、周りの人が本人を追い込むことも必要で、周りも努力を要求されます。
料理は、私には修行ものです。どうしてもやらねばならない仕事と思えばできますが、趣味ではやる気が起こりません。子供時代の刷り込みが影響しているのかもしれません。昔、高校の調理実習で作ったプリンがおいしかったので、家でも作ったことがありましたが、家族はもちろん当時飼っていた犬さえ食べませんでした。後で、塩を十倍入れていたことがわかったのですが、わざわざ秤を使って計ったために目盛りを読み間違えていたのです。その事で、私には料理に対する常識がないということになってしまいました。また、大学生のころ、お茶の袋にほうじ茶の入れ方が書いてあったので、そのとおりにお茶の葉を入れていくと、茶さじに五、六ぱいで急須がいっぱいになりました。茶さじに十五はいと書いてあるのに変だと思いつつ、むりやり八ぱいぐらい押し込んで、お湯を入れたら膨れ上がって急須の蓋が盛り上がってしまいました。もちろん、湯のみに注ぐと真っ黒になってしまいました。よく見ると十五はいではなく、一・五はいの間違いでした。どうやら、小数点が小さくて見落としていたらしいのです。
一応その後の修行のおかげで、私も料理を作ることができるようになりましたが、得意でないことを責任や義務でやりすぎて楽しみがなくなってしまいました。若い人は修行ものも必要でしょうし、身にもつくでしょうが、人生八十年の半分以上生きてきた私としては、いいかげん修行ものはうんざりです。このごろ私は、自分にもともと備わったものを使って、楽しみながら生きていきたいと思うのです。だから、今まで一度もしたことがないことをやろうと思っています。もしかしたら、今まで気付かなかった才能がみつかるかもしれないので。
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