京都新聞 口丹随想(6)
小林和子(掲載日 1997.8.31.)
見出し: 夏の終わり
日中は暑いですが、朝晩は涼しくなりました。まだ夏なのに夜はどこか秋めいているこの頃を、俳句の夏の季語で、夜の秋というらしいですが、毎年妙に落ち着きません。日の暮れがいつのまにか早くなっているからかもしれません。あるいは、夏休みが終わってもう二学期が始まってしまうという、子供の頃の気持ちの名残かもしれません。
夏休み帳やドリル等の学習ものは早く済ましていたのですが、絵や工作、自由研究等の作品ものは後回しにしていたので、八月半ばのお盆が過ぎると、気になっていました。でも、なかなか気が乗らなくてぐずぐずしているうちに、二十日過ぎになるのが常でした。母は、学校の教科はどれでもよくできた人で、絵や工作、習字、作文等も上手で子供心に感心することが多かったのです(小学校の宿題ですから、大人ができるのは当たり前かもしれませんが)。私の絵や工作が、まどろっこしくて見ていられなかったのでしょう。手伝ってくれていたのが、いつのまにか主客転倒して、私の作品ではなく、母の作品になっているのでした。絵や工作にとどまらず、理科の自由研究もテーマ選びから実験指導までやって、学校内だけでなく、その地区の研究発表会で発表までできるところまで完成させていました。発表原稿も母の作ったもので、先生も母に任せるという感じでした。こんなに一生懸命にしてくれたのに、肝心の研究内容を覚えていないのはなぜでしょう。私を含めて三人の子供にすべて同じようにしていましたが、残念ながら他の二人もあまり覚えていないのです。
私は、子供たちの宿題を手伝ったことがありません。私が手伝うより、自分でやった方がよほど上手にできるのだということを、物心つくころから身にしみているのでしょう。私自身の経験から、たとえ下手でも自分の力で最後までやりきらないと身につかないし、自信も持てないから、子供たちが創作活動らしきものを始めた時には、手や口を出さないことにしていました。子供たちが始めて鉛筆を持った時から、ああした方がいいとかこうした方がいいとかいう批評をしないで、ほめ言葉だけを言っていました。ほめられると子供たちは喜んで、時間のある限り絵を描いていました。そのうち、好きこそものの上手なれで、私の段階を越えてしまいました。もっとも、たまたま親の私が下手で、子供のほうがずっと上手だったので、手伝う必要がなかったのではないかと、母は言っていますが。もしそうだとしても、親ができすぎて(大人になってからではなく子供の頃に思ったとしてですが)手を出しすぎるよりは、いいのではないでしょうか。自分でやったという達成感がないと、いつまでも自信を持つことができないので、だんだんに意欲を失ってしまうのです。それよりは、親が子供より下手でも心から子供をほめるほうが、ましだと思うのです。
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