京都新聞 口丹随想(7)
小林和子(掲載日 1997.10.26.) 
見出し: 栗ごはんと希少価値

丹波は栗の名産地ですから、私の大学の食堂でも、この季節には栗ごはんがでます。しかし、なにぶん栗の鬼皮をむくのはたいへん面倒な仕事なので、自分で栗ごはんを作る時は一年に一度と決めています。

去年栗の皮むき用のハサミを見つけたので以前より楽になりましたが、それでも休日の半日は費やすことになります。せっかく栗ごはんを作るのだからと、その献立にあわせてお吸い物や焼き魚などのおかずを作っていたこともありました。でも、あまりにがんばりすぎて、料理ができあがる頃には、すっかり疲れて不機嫌になってしまうのでした。このパターンが何度か繰り返されたので、最近は、おかずなしで栗ごはんだけの単品にしています。そのかわり、ごはんの中に栗があるというよりも、栗の中にごはんがあるくらいにたくさん栗を入れて炊きます。そして、その栗ごはんだけを、お昼ごはん、夕ごはん、次の日の朝ごはんと食べ続けるのです。子供たちに、「今年の栗ごはんはこれで終わりよ」と言うと「一年分食べたから満足」と答えるのが、私の家の作法になっています。

人の気持ちは、おかしなところがあって、いつもごちそうを作ってもらって食べていると、慣れてしまっておいしさや作ってもらえることに対して鈍感になってしまいます。いつも家の中をきれいに掃除してもらっていると、その状態が当たり前になってしまいます。ところが、いつもほとんど料理や掃除をしない人が、たまに料理や掃除をすると、感激されたり感謝されたりします。理不尽だと思いますが、希少価値を感じるのかもしれません。

希少価値というのは、存在がまれで少ないために生ずる価値ということになっています。しかし、存在そのものはさほど珍しくはなくとも、接する機会が少ない場合は、希少価値になります。年一回しか栗ごはんを作らないというのは自分で作った希少価値です。生活をある一定の状態に維持継続するために、実際に仕事をする方は、かなり努力と忍耐を必要とします。でも、実際の仕事をしていないと、たとえ高い水準に維持されていても気付かないことが多いのです。そんな時、仕事をした方は怒りを感じたり不機嫌になりますし、してもらった方は感謝を強要されたように感じて困惑します。それに対して、いつもが低い水準に設定されていて、たまに高水準に達すると、たいへん驚かれ感謝されるのです。やはり、自然に感謝の気持ちが起こるには、希少価値を作るのが一番よいのではないかと思います。九十点を九五点にするのと、六十点を八十点にするのとでは、前者のほうが精神的には苦しいのですが、努力をほめられるのは、たいてい後者です。大きな努力を払ったうえにさほど喜ばれもせず、場合によっては感謝を強要するなどと思われるのでは、割にあいません。日常生活で、希少価値を演出することは大切なことではないでしょうか。

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