京都新聞 口丹随想(8)
小林和子(掲載日 1997.12.21.)
見出し: 主観的評価と客観的評価
年の暮れが近づくと、だれでも知らず知らず一年間を振り返り、自分なりの評価をします。自分のしたことに対して、自分の下す主観的評価と他人の下す客観的評価とが、一致していれば問題ありませんが、かなりの開きがあると具合が悪いことになります。
ただでさえ忙しい早朝に、親心で子供の見送りに玄関先まで出ているのに、近所の人に出会ったりすると、ひどく驚いた顔をされ、子供にも迷惑がられるのです。確かに髪は起きた時のままで頭の大きさが二倍くらい伸びた状態、ノーメイクで、メガネ(いつもはコンタクトレンズです)に綿入れはんてん姿(暖かくて地球環境にもよいと思うのですが)ではあります。大急ぎで朝ご飯やお弁当を作った後、時間を惜しんで「いってらっしゃい」の声掛けをしているというのに。近所の人もいっそのこと別人と思ってくれればよいのに、やはり本人だとわかるらしいのです。時間が少ない時には、優先順位を決めて順次実行に移していくのが最も理にかなっていると思うのですが、他人には本人の内面の葛藤はわからないのでしょう。また、子供の帰る時間が遅いので家の外で待っていたら、巡回中のパトカーがいったん止まって、おもむろに行ってしまったことがありました。一瞬ですが、パトカーの中のお巡りさんと目があったように感じました。たまたま近くのコンビニで買い物をした帰りで、袋を持ってうろうろしていたので、不審者と疑われたのかもしれません。確かにトータル・コーデイネイト度はゼロに近い服装で、場違いの感じはありました。子供の安全を最優先と考えてずっと周辺を見回っていたのに、却って自分の方が怪しまれる立場になるとは思いもしませんでした。
外見と中身は分離したものではなく、中身は必ず表に現れ、外見は第一印象として他人に影響し再度自分に戻ってくるものです。ただ、外見の印象については、自分で思い描いている自己の姿と他人の見る自分の姿とではかなり違っているということです。自分では忙しい朝に甲斐甲斐しく働くやさしい母のつもりでも、他者の目には、存在感や迫力はあってもけなげなイメージはないということでしょう。
個性や独創性は、独立した個人の思いこみや熱意に支えられている部分もありますから、他人に押しつけたり強要しないで一人で自分のできることをするのであれば、主観的評価で生きるのも楽しいのではないかと思います。しかし、最近この新聞の文章が縁で園部消防署の危険物安全管理研修会で話をする機会があって冷や汗をかいたり、出身大学の研究室の同窓会で後輩が医大に入学し直して、明治鍼灸大学に非常勤講師で来ていることがわかったり、近所に大学の学生が住んでいることがわかったりすると、自分の思いもよらない所で、他人の客観的評価を受けていたのではと思って、ギクリとしてしまいました。
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