京都新聞 口丹随想(9)
小林和子(掲載日 1998.3.1.) 
見出し: 悲喜こもごも

毎年のこととはいえ、試験のシーズンには喜びと悲しみが交錯します。入学試験は選抜試験なので、定員以上の受験者がいれば必ず不合格者がでます。でも、大学の定期試験はある基準に達していれば合格できる検定試験ですから、全員合格するのが一番良いのですが、そうもいかないのが現実です。試験といえば、受ける方に目がいきますが、採点する方もなかなかに苦しいものがあります。一番困るのは何も書かれていない答案です。しかし、学生が勝手に問題を作って答えてしまう答案も困ります。学生の方も何とか単位を落とさないよう、工夫をしているのでしょう。

他の大学でも担当科目の試験をしますが、困った学生が答案に書く内容は似ています。「お願いです、先生助けて下さい」と、ひたすらお願いのことばが書き連ねてあるものがあります。また、「今までよくわからなかったけれど、先生の講義のおかげでよくわかるようになりました」と、私を誉めてくれるものもあります。私の評価が急によくなるわけです。しかし、ほとんど講義に出席していないのに、どうしてわかりやすく説明しているということがわかるのか、不思議です。そんなによくわかっているのなら、なぜ試験内容が悪いのかと考えると、喜ぶべきか悲しむべきか、複雑です。

自分の近況を報告している答案もありました。運動クラブの合宿で朝は五時起き、夜も遅くまで練習で、部屋に戻ったら寝るだけの日々、へとへとで試験を受けるのさえ精一杯と、合宿のスケジュール表を添えて日記ふうにまとめてあるものなどで、楽しませてくれました。学生も、低学年ならたとえ不合格でも翌年にまた履修すればよいと、せっぱ詰まった感じはありません。しかし、四年生だと卒業に関わるので、執念が感じられます。自分の卒論内容を答案に書いて、私の試験問題との関連を説明して単位を認めることの正当性を主張するのです。試験後、「先生には先生の都合があるでしょうが、僕には僕の都合があります」といって、自分でテーマを作って「自主リポートです」と書いて送ってきた豪傑もいました。このような人たちは、こちらの問題の意図とは関係ないことを書いて単位をとろうとするのですから、筋が通らないのは確かですが、始めから拒否している白紙に近い答案よりは、少なくとも、こちらと関わりを持とうとする気持ちは伝わります。

普段、大学の化学の講義では学生と個人的な話をすることは少ないので、試験問題とは直接関係ない個人的な文章を読むと、物語としておもしろく感じます。でも、一番嬉しいのは、最初ほとんど解らないと言っていた学生が、最後の試験のときにはたいへんよく理解できている答案を見る時です。誰もが味わいたい正統派の喜びです。

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