前回掲載していた訳文にいくつか不備がありましたので、ここに改訂版を掲載します。適切な助言をいただきました尾崎昭弘先生に深謝します。
謝辞
このガイドラインの作成にあたっては、WHOの地域事務局ならびに世界鍼灸学会連合会(WFAS)を通してコメントを提出頂いた方々をはじめ、コメントやアドバイスを頂いた多くの専門家の方々に負うところが大きく、当機関として心から感謝します。
特に、1996年にイタリアのセルビアで開かれたWHOの”鍼に関する会議”においてガイドラインの草案をご検討頂いた方々、ならびに、その草案を作って頂いた北京医科大学第一病院統合医学研究所の名誉所長である朱範謝教授、最終草案を編集頂いたゴードン・ストット博士には感謝申し上げます。
さらに、後援をして頂いたイタリアの保健省、ならびにミラノ国立大学の生物気候学、生物工学、自然医学の各研究センター、および出版に際して経済的援助を頂いた日本の兵庫鍼灸連合会ならびにノルウェー鍼連合会にもお礼申し上げます。
謝辞
緒言
鍼治療の基礎教育
鍼治療の安全性
1.ガイドラインの目的
2.国のヘルスケアシステムにおける鍼の利用
2.1 行政上、学術上の問題
2.2 試験と免許
2.3 監督、追跡調査、および評価
2.4 上級教育と経歴向上の可能性
3.教育レベル
4.教育プログラム
5.鍼師の教育
5.1 鍼師
5.2 入学に必要な条件
5.3 教育期間
5.4 目的
5.5 鍼に関する必修項目
5.6 現代西洋医学に関する必修項目
5.7 他の保健関連分野
5.8 試験
6.医師資格をもつ人のための鍼の正規教育
7.医師資格をもつ人を対象とした鍼の特別教育
7.1 基礎教育
7.2 特別コース
7.3 上級教育
8.プライマリーヘルスケア職員のための鍼の特別教育
9.基礎教育用に選ばれた経穴
10.鍼治療の基礎教育用に選ばれた経穴
1.感染の予防
1.1 清潔な施術環境
1.2 清潔な手指
1.3 施術野の準備
1.4 鍼および器具の滅菌と管理
1.5 無菌的な手法
2.禁忌
2.1 妊娠
2.2 救急事態および手術を必要とする場合
2.3 悪性腫瘍
2.4 出血性の疾患
3.事故および逆効果
3.1 鍼の質
3.2 患者の体位
3.3 失神
3.4 痙攣発作
3.5 痛み
3.6 渋鍼
3.7 折鍼
3.8 局所の感染
3.9 施灸時の熱傷
4.電気刺激とレーザー治療
5.重要臓器の傷害
5.1 刺鍼を避けるべき部位
5.2 予防措置
6.診療記録1.鍼およびその他の備品の滅菌
2.滅菌の方法
3.消毒
4.管理
緒言
鍼は中国伝統医学の重要な要素の一つである。2500年以上も前から利用され始めており、多くの中国の古典が示すように、たいへん古くからすでに立派な理論が発達していたのである。6世紀にはアジアの近隣諸国に紹介されて直ちに受け入れられ、16世紀の初めにはヨーロッパに達している。鍼はここ20年ほどの間に世界中に広がったが、それと共に、特に現代医学的な観点で現代の研究方法論を適用した研究を通して、この治療法をさらに発展させようとする試みが推進されてきている。
伝統医学には有益な要素が数多く含まれているところから、WHOでは、各国が公的または私的な保健サービスの分野において利用可能できるよう、安全かつ有効な治療薬や施術法を見きわめるように奨励するとともに、援助もしてきた。また、WHOでは、鍼の有効性を認めた研究や鍼の適切な応用に対して特に注目しており、1991年の第44回世界保健総会において、メンバー国がそれぞれ鍼に関する法規を作り、監督するようにとの勧告をしている(決議 WHA 44.34)。
鍼の使用が増加するにつれて、教育、研究、臨床などの場におけるコミュニケーションや情報の交換を容易にするために、共通な言葉を用いる必要が生じてきたので、WHOは1989年に科学者グループを召集し、標準国際鍼用語を定める作業をした。今ではその用語が広く用いられている。
さらに、その科学者グループはWHOに対して、鍼についての基礎教育や臨床上の安全性、適応と禁忌、臨床研究などに関する一連の声明を出したり、ガイドラインを作ったりするように勧告してきた。その結果、鍼の臨床研究に関するガイドラインが1995年にWHOの西太平洋地域事務局から出されたのである。
この文書は鍼の基礎教育および鍼の安全に関するガイドラインからなっている。作成にあたっては、50名以上の国際的な専門家たちが各々の知識と経験を出し合った。鍼の基礎教育
このガイドラインは、医師以外の鍼師および臨床で鍼を使いたいと思っている医師の教育のための基礎的必要事項、ならびに講義における必修項目を網羅したものである。また、このガイドラインは、各国の保健関係当局が鍼の基準を定め、公的試験制度を設けるのを助けると共に、医学関係の教育機関が鍼の教育プログラムを編成してくれることを願って作成したものである。鍼の安全性
このガイドラインは病院、診療所、施術者などを対象として、鍼の臨床的施術に際しての安全性に関する基準を定めようとしたものである。その目的は、感染や事故の危険を最小にすること、鍼の施術者に禁忌に対する注意を促すこと、治療中に発生する合併症の処置に関するアドバイスをすることである。
伝統医学チームコーディネーター代理
張 小瑞 博士近年、鍼が治療法の一つとして普及してきたこと、また、幾つかの国でプライマリーヘルスケアに鍼を取り入れようとする動きがあることなどは、鍼の使用についての安全性や治療者の資格を国の保健関係当局が保証する必要が生じてきたことを意味している。
伝統医学に関する正規の教育制度を有する国、および鍼がヘルスケアの一分野として確立されている国では、数年間の専門学校レベルの教育が行われたり、鍼師に対する適当な監督機構が出来上がっている場合もある。
しかし、それ以外の、現代西洋医学が唯一の国民保健制度の基礎となっている国々では、立場は異なっており、鍼の施術を監督できるような教育的、職業的、法律的な枠組みが全く存在しない場合もある。
現代の医学的ケアの中で鍼を利用する場合は、鍼を伝統的な枠から取り出し、現代医学と伝統医学の理論を調和させることは考えず、現在までに効くことが明らかにされている限られた病状に対する治療法の一つとして適用することを意味している。このような状況のもとでは、鍼治療の背景にある伝統医学に関する長期教育は実行出来ず、また必要でもない。より短期間の教育で十分であるにちがいない。
さらに、多くの国では鍼治療はまだ正式に認められておらず、また、法規や登録に必要な条件が決められている国であっても、それらはまちまちである。免許のある医師だけが鍼治療が出来る国もあれば、伝統医学の教育を受けた臨床家なら誰でも行える国もある。
したがって、鍼の理論と臨床に関する比較的短期間の教育のためのガイドラインを提供することが役立つと思われる。この教育が精選されたカリキュラムに従って、優れた指導者によって行われるならば、鍼の安全性および受講者の能力は十分保証されるものと思われる。
ここ数十年の間に様々な国で鍼に関する理論や臨床の面で発展が見られたが、特に、この伝統的な治療法の研究に現代医学的な観点と方法論を取り入れた国における発展は著しい。それらの研究成果をこの教育に取り入れるべきであるが、それによる新しい理論体系がまだ確立されていない状況なので、依然としてこのガイドラインでも、講義の必修項目の基礎には中国の伝統医学理論が採用されているのである。1.ガイドラインの目的
現代西洋医学がヘルスケアの根幹をなしている国々において、国の保健関係当局が以下のような事項に関する法規を定める際に、このガイドラインが役立つことを願っている:
・ 鍼の基礎教育ならびに施術に関する全般的な必要条件
・ そのような状況のもとで、国のヘルスケアシステムに雇用された鍼師が必要とする現代西洋医学に関する知識および経験;同様に、自らの現代西洋医学関係の仕事に鍼を取り入れたいと希望している医師および保健事業従事者に必要な鍼に関する知識および経験。2.国のヘルスケアシステムにおける鍼の利用
現代西洋医学を基礎としているシステムの中で、国の保健関連省庁がプライマリーヘルスケア(あるいは、行政による他のどんなレベルのヘルスサービスであっても)に鍼を採り入れる決定を下すにあたっては、考慮しなければならない重要な問題が多数生じてくる。
2.1 行政上、学術上の問題
鍼に従事する人材の養成に関してはいくつかの行政上、学術上の問題がある。例えば:
・どのような人材を養成するのか?
・彼らの仕事と責任は何か?
・教育の内容は?
・そのような教育をどこで誰が行うか?
・資格のある適当な指導者が得られるか、それとも指導者をこれから養成する必要があるのか?
・教育内容、指導者、教育機関などの公的承認の仕組みをどうするか?2.2 試験と免許
試験と免許の制度は、鍼の教育を受けた者の能力を保証し、無免許者の施術を防止するために必要である。
これらの制度は、一部の先進国や開発途上国において、鍼の教育や営業に関して有害な結果をもたらしかねない商業主義が横行している現状をコントロールするのに役立つと思われる。2.3 監督、追跡調査および評価
国の保健システムに鍼治療従事者という新しいカテゴリーに属する人材を導入するにあたっては、次のような事項についての準備が必要になるであろう。
・教育終了後の一定期間を監督のもとで施術させる。
・個人ならびにグループとして、教育修了者たちの仕事ぶりについての追跡調査。
・今までそうでなかった国において鍼をプライマリーヘルスケア(あるいは、異なったレベルのケア)に採り入れたことによる利益(あるいは、損害)についての評価、および一般的な病状に対する鍼以外の治療法と比較したときの対費用効果についての評価。2.4 上級教育と経歴向上の可能性
一部の鍼師が自らの現代西洋医学に関する知識を増やしたいと希望することもあるであろうし、逆に、鍼の基礎教育を受けたことのない保健関連事業従事者が鍼の知識を修得して、後にそれを利用したいと希望することもあるであろう。これらの可能性は予想されるし、また奨励すべきことでもあるので、究極的には両者の教育をある程度兼ねるようなことが起こるに違いない。
3.教育のレベル
このガイドラインでは、鍼の教育に4つのレベルを設けることを提唱する。
・これまでにほとんど、あるいは全く医学教育を受けたこともなく、保健関連事業に従事した経験もない人たちであって、鍼師としての免許を得て国の保健関連省庁の管理のもとで独立した営業を希望する人たちに対する正規の教育。
・有資格の医師(現代西洋医学)に対する鍼についての正規の教育。
・現代西洋医学の学校を卒業した有資格医師(および、その他の医療関係大学卒業者)で、自らの臨床に治療法の一つとして鍼を採り入れたいと希望している人たちに対する教育。
・国のプライマリーヘルスケア組織の中で仕事をしている医師以外の保健事業従事者(現代西洋医学)に対する限定された教育。4.教育プログラム
4つのグループに対する基礎教育はそれぞれに違いがある。伝統的な鍼治療に従事する鍼師については、2年以上の完全なコースが望ましい。医師ならびに医学教育を受けていない医師でない人たちについては、それぞれの特殊な必要に応じて行うこととし、鍼の臨床だけに限った教育でもよいであろう。それぞれの場合に望ましい教育時間の目安を下の表に示した。
表1:鍼の基礎教育
カテゴリー 教育レベル 鍼灸学
シラバスの中核
理論 臨床 臨床実習
現代医学
理論+臨床
公的試験 認可 鍼施術者(非医師) 正規コース 1000時間 500時間 500時間 500時間 鍼+医学* 鍼師 有資格医師 正規コース 500時間 500時間 500時間 鍼 有資格医師 臨床技術としての限られた教育 少なくとも200時間 鍼 他の保健事業従事者 プライマリヘルスケアのために限られた教育 用いられる分野に応じて変わる 鍼 * 鍼と現代西洋医学についての(適切なレベルの)国家試験
5.鍼師の教育5.1 鍼師
この教育プログラムは、適切なレベルの教育は受けているが、現代西洋医学的なヘルスケアについての正式な教育はほとんど、あるいは全く受けたことがなく、保健関連事業に従事した経験もない人たちを対象にデザインされたものである。5.2 入学に必要な条件
高等学校(secondary school)卒、大学入学あるいはそれに同等の資格、および基礎的な生物科学について適当な教育を受けていること。5.3 教育期間
フルタイムで2年間(2500時間)、あるいは、これに相当するパートタイムであって、1000時間以上の臨床実習を伴うこと。5.4 目標
このレベルの教育の目標は、修了後に国のヘルスサービス事業に採用される鍼師を養成することである。すなわち、この教育は教育を受けた者が病院においては選ばれた患者に、保健センターや地域レベルの施設においてはプライマリーヘルスケアチームの一員として、安全で効果のある鍼治療を施すことのできる能力を身につけさせるものである。しかし、これらの人たちも初めは担当の医師の全般的な監督のもとで仕事をすることになる。5.5 鍼に関する必修項目
1.簡単な鍼の歴史
2.基礎理論
・中国伝統医学の哲学。 陰陽、五行の概念を含むが、それだけに限定しない。
・気、血、神、精と津液の働きと、相互の関係。
・臓腑(内臓)の生理的ならびに病理的兆候と、それらの相互関係。
・経絡、その分布と機能。
・病の原因とメカニズム。
3.経穴についての知識
・12正経と任脈、督脈(14経絡)上にある361正穴、および48奇穴の位置。基礎教育のために選ばれた常用経穴の位置と解剖学的記述。
・文字数字式コードと名称、経穴の分類、鍼の刺入の方向と深さ、付録のリストにあげた常用穴の作用と適応症。
4.診断
・診断法、病歴聴取、望診と舌診、切診と脈診、聞診と嗅診。
・八綱弁証、臓腑弁証、気血弁証、経絡弁証。
5.治療(国の法律やヘルスサービス関連規則などで許される範囲の)
治療原則
・個々の症例に、治療のための理論と診断を臨床的に適用すること。
・鍼治療がその患者に適当であること。
・施すべき鍼治療の計画を立てること。
・適切な経穴と適切な鍼の手技を選ぶこと。
・鍼治療の限界、他の保健専門家や専門医に照会する必要性の理解。
[鍼の安全性に関するガイドライン]
治療テクニック
・鍼の操作:無菌で安全な鍼の操作テクニック、鍼の選択、適切な刺入、深さ、時間、手技(様々な、補法、瀉法、平補平瀉法など)、抜鍼、鍼の刺入に対する禁忌。
・関係国でのみ用いられている小規模な特殊な鍼:理論、ツボの位置と応用。
・電気刺激およびレーザー治療:理論と応用。
・灸:直接灸と間接灸、適切な利用と禁忌。
・吸角法:適切な利用と禁忌。
患者がよく鍼治療に頼ろうとする病気や病状に対する治療
緊急時の鍼治療
伝統医学における予防5.6 現代西洋医学に関する必修項目
1.教育の目標
この教育の終了時までに、学生は次のようなことを修得していなければならない:
・解剖学(経穴の解剖学的位置も含めて)、生理学、疾病の基礎的メカニズムなどの要点に関する正しい理解。
・衛生の原理、その社会における疾病や不健康の一般的な様態、および、それらの原因となる要因についての理解。
・患者について簡単かつ的確な診察ができ、一応の診断が下せて、症状や徴候の重篤度について合理的な評価ができる能力。
・患者が鍼灸によって安全かつ適切に治療できるものか、他の医療専門家や施設に照会すべきかを判断する能力。
・応急手当、心肺蘇生法、緊急時の対処法に関するトレーニング。2.教育の範囲とレベル
教育の範囲とレベルについては、鍼師が現代西洋医学による治療もできる(単独または鍼と組み合わせて)のか、どのような監督のもとで仕事をさせるのかなどを含めて、鍼灸師が国の保健システムの中で担うべき任務と責任の程度に合わせて、国の保健関連当局が定めるべきことである。
5.7 他の保健関連分野
将来、国の保健システムで働くことになる職員として、医師資格を持たない鍼師は、その国のヘルスサービスの組織、関連法規や手続き、保健関連職員や施設の配備状態、倫理問題、保険関連の必要事項などについての十分な知識も備えていなければならない。
5.8 試験
教育の全過程を終了した時点で、その学生の鍼に関する知識と実技、ならびに西洋医学に関する知識(適当なレベルの)を、国の保健関連当局によって承認された公的な試験によって評価する必要がある。その試験の結果をもって、その学生が免許を得て施術活動に従事するのにふさわしい者であることの証明とする。
6.医師資格をもつ人のための鍼の正規教育
この教育プログラムは、鍼灸師が日常的に治療している患者の様々な病状を、独自に鍼で治療したいと願っている(現代西洋医学の)医師を対象にデザインしたものである。
医師はすでに現代西洋医学についての十分な知識と技能をもっているので、鍼灸についての必修項目を学習するだけで十分であろう。また、医師は医学教育を受けたことがない人たちよりも容易に伝統医学の知識が修得できるから、伝統医学理論についての学習時間を短縮することも可能であろう。そのコースは1000時間の施術、臨床実習を含めて最低1500時間の正規教育で編成すべきである。
受講者は、コースを修了し、公的試験をパスした後は、適応のある様々な医療分野において鍼の施術活動ができる権利が与えられるべきである。7.医師資格をもつ人を対象とした鍼治療の特別教育
7.1 基礎教育
現代西洋医学による臨床活動における治療法の一つ(あるいは、科学研究調査の題目の一つ)にするために、鍼に習熟したいと願う医師(ならびにある種の大学卒業生)に対しては、より短期間の教育コースが適しているであろう。
それらの人々については、伝統的鍼灸に関する簡単な概論(必修項目からの抜粋)で十分なので、教育の多くの時間を現代西洋医学的治療における鍼灸の利用に振り当てることができる。
そのコースは最低200時間の正規教育にすべきで、次にあげる内容が含まれていなければならない:
1.伝統的中国鍼の概論
2.経穴
・12正経および任脈、督脈上にある361の古典経穴と48の奇穴の位置
・文字数字式コードと名称、経穴の分類、鍼の刺入の方向と深さ、基礎教育用に選ばれた常用穴の作用と適応症。
3.現代西洋医療における鍼の応用
・鍼の有効性が明らかにされている主な臨床的病状
・患者の選択ならびに経過/効果(benefit)についての評価
・治療計画の立案、経穴および鍼の手技の選択、鍼灸と併用する薬物治療あるいはその他の治療法。
4.鍼の安全性に関するガイドライン
5.治療のテクニック
・一般原則
・特定の臨床的病状受講者は、コースを修了し、公的試験をパスした後は、自らの臨床活動あるいは専門分野に鍼灸を採り入れられるようにならなくてはならない。
7.2 特別コース
医師あるいは歯科医のなかには、鍼灸の特定の応用分野(例えば、疼痛の軽減、歯科や産科の鎮痛)に習熟したいと願う人たちがいる可能性もある。したがって、それらの人たちについては、関心のある特殊な分野に適した特別な教育コースを作る柔軟性が必要である。
7.3 上級教育
短期の基礎教育をよい成績で修了した医師その他の保健関連職員のなかには、さらに上級レベルの教育を受けたいと希望する人たちが出る可能性もある。その様な場合には、その人たちの要望に合わせた適当な教育コースを特別に用意する必要があろう。
8.プライマリーヘルスケア職員のための鍼特別教育
社会全体のプライマリーヘルスケアに”鍼”を採り入れる場合、それを誰の目にも明らかな規模で実施しようとすれば、短期間に相当数の職員を教育する必要が生じてくる。それはまた当事国の教育事情や監督官庁に無理な負担をかけることになる。
そのような場合には、鍼灸よりも指圧に従事する人材を養成する方が賢明だと思われる。指圧の教育ならば大した施設設備もいらないので、プライマリーヘルスケア職員の一般教育のなかに組み込むことが可能であり、それによって患者に何らリスクをもたらすことはない。プライマリーヘルスケアに指圧を利用するときは、適当な期間試験的に実施した後で評価をしてみる必要があろう。そして、特別な才能を示した人材を選んで、鍼灸の基礎教育を受けさせるのである。教育のプログラムはその採用状況に合わせて調整すればよい。9.基礎教育用に選ばれた経穴
1996年にイタリアのセルビアで開かれたWHOの”鍼に関する会議”において、基礎教育コースのための”常用穴”リストが作られた。そこに載せられた経穴は”標準国際鍼灸用語原案”:WHO 科学者グループ報告(WHO,Geneva, 1991)から選び出されたものである。
表からも分かるように、選び出されたツボは、361の古典経穴から187、48の奇穴から14である。このように、今まで述べてきた様な人材を養成するための基礎教育コースでは、計409のツボのうちわずかに201穴の利用に重点がおかれている。
この後で触れる安全性に関するガイドラインでは、ツボのなかには危険な可能性のあるものがあり、その使用には特別な技量と経験が必要であると述べている。その様なツボのうちのいくつかがこの”常用穴”リストに含まれており、注目されている。
10.鍼の基礎教育用に選ばれた経穴(リスト)
経絡、経脈、奇穴 国際標準経穴名称 基礎教育のために選ばれた経穴 肺経
大腸経
胃経
脾経
心経
小腸経
膀胱経
腎経
心包経
三焦経
胆経
肝経
督脈
任脈
小計 奇穴
総計 11 20 45 21 9 19 67 27 9 23 44 14 28 24 361 48 409 6 12 25 11 5 13 34 8 7 12 20 8 13 13 187 14 201
[鍼の基礎教育用に選ばれた経穴]
ここに挙げた経穴は、WHO 科学者グループ報告”標準国際鍼用語” (WHO,Geneva, 1991)から選ばれたものである。
1. Lung Meridian(LU) 肺経
LU1 zongfu 中府
LU5 chize 尺沢
LU6 kongzui 孔最
LU9 taiyuan 太淵
LU10 yuji 魚際
LU11 shaoshang 少商
2. Large Intestine Meridian(LI) 大腸経
LI1 shangyang 商陽
LI3 sanjian 三間
LI4 hegu 合谷
LI5 pianli 陽谿
LI6 pianli 偏歴
LI7 wenliu 温溜
LI10 shousanli 手三里
LI11 quchi 曲池
LI14 binao 臂臑
LI15 jianyu 肩ぐう
LI20 yingxiang 迎香
LI18 futu 巨骨
3. Stomach Meridian(ST) 胃経
ST1 chengqi 承泣
ST2 sibai 四白
ST3 jinliao 巨りょう
ST4 dicang 地倉
ST5 daying 大迎
ST6 jiache 頬車
ST7 xiaguan 下関
ST8 towei 頭維
ST18 rugen 乳根
ST21 liangmen 梁門
ST25 tianshu 天枢
ST27 daju 大巨
ST29 guilai 帰来
ST31 biguan 脾関
ST32 futu 伏兎
ST34 liangqiu 梁丘
ST35 dubi 犢鼻
ST36 zusanli 足三里
ST37 shangjuxu 上巨虚
ST38 tiaokou 条口
ST40 fenglong 豊隆
ST41 jiexie 解谿
ST42 chongyang 衝陽
ST44 neiting 内庭
ST45 lidui れい兌
4. Spleen Meridian(SP) 脾経
SP1 yinbai 隠白
SP2 dabu 大都
SP3 taibai 太白
SP4 gongsun 公孫
SP5 shangqiu 商丘
SP6 sanyinjiao 三陰交
SP8 diji 地機
SP9 yinlingquan 陰陵泉
SP10 xuehai 血海
SP11 jimen 箕門
SP15 daheng 大横
5. Heart Meridian(HT) 心経
HT3 shaohai 少海
HT5 tongli 通里
HT7 shenmen 神門
HT8 shaofu 少府
HT9 shaochong 少衝 6. Small intestine Meridian(SI) 小腸経
SI1 shaoze 少澤
SI3 houxi 後谿
S14 wangu 腕骨
S15 yanggu 陽谷
SI6 yanglao 養老
SI9 jianzhen 肩貞
SI10 naoshu 臑兪
SI11 tianzong 天宗
S112 bingfeng 秉風
SI14 jianwaishu 肩外兪
SI17 tianrong 天容
SI18 quanliao 顴りょう
SI19 tinggong 聴宮
7. Bladder Meridian(BL) 膀胱経
BL1 jingming 晴明
BL2 cuanzhu 攅竹
BL7 tongtian 通天
BL10 tianzhu 天柱
BL11 dazhu 大杼
BL12 fengmen 風門
BL13 feishu 肺兪
BL15 xinshu 心兪
BL17 geshu 膈兪
BL18 ganshu 肝兪
BL19 danshu 胆兪
BL20 pishu 脾兪
BL21 weishu 胃兪
BL22 sanjiaoshu 三焦兪
BL23 shenshu 腎兪
BL25 dachangshu 大腸兪
BL28 pangguangshu 膀胱兪
BL31 shangliao 上りょう
BL32 ciliao 次りょう
BL33 zhongliao 中りょう
BL34 xialiao 下りょう
BL36 chengfu 承扶
BL40 weizhong 委中
BL43 gaohuang 膏こう
BL52 zhishi 志室
BL54 zhibian 秩辺
BL57 chengshan 承山
BL58 feiyang 飛陽
BL60 kunlun 崑崙
BL62 shenmai 申脈
BL64 jinggu 京骨
BL65 shugu 束骨
BL66 zutonggu 足通谷
BL67 zhiyin 至陽
8. Kidney Meridian(KI) 腎経
KI1 yongquan 湧泉
KI2 rangu 然谷
KI3 taixi 太谿
KI5 shuiquan 水泉
KI6 zhaohai 照海
KI7 fuliu 復溜
KI9 zhubin 築賓
KI10 yingu 陰谷
9. Pericardium Meridian(PC) 心経
PC3 quze 曲澤
PC4 ximen げき門
PC5 jianshi 間使
PC6 neiguan 内関
PC7 daling 大陵
PC8 laogong 労宮
PC9 zhongchong 中衝 10. Triple Energizer Meridian(TE) 三焦経
TE1 guanchong 関衝
TE2 yemen 液門
TE3 zhongzhu 中渚
TE4 yangchi 陽池
TE5 waiguan 外関
TE6 zhigou 支溝
TE9 sidu 四とく
TE13 naohui 臑兪
TE14 jianliao 肩りょう
TE17 yifeng 翳風
TE21 ermen 耳門
TE23 sizhukong 絲竹空
11. Gall Bladder Meridian(GB) 胆経
GB1 tongziliao 瞳子りょう
GB2 tinghui 聴会
GB8 suaigu 率谷
GB12 wangu 完骨
GB14 yangbai 陽白
GB20 fengchi 風池
GB21 jianjing 肩井
GB24 riyue 日月
GB25 jingmen 京門
GB29 juliao 居りょう
GB30 huantiao 環跳
GB31 fengshi 風市
GB33 xiyangguan 膝陽関
GB34 yanglingquan 陽陵泉
GB37 guangming 光明
GB39 xuanzhong 懸鐘
GB40 qiuxu 丘墟
GB41 zulinqi 足臨泣
GB43 xiaxi 侠渓
GB44 zuqiaoyin 足竅陰
12. Liver Meridian(LR) 肝経
LR1 dadun 大敦
LR2 xingjian 行間
LE3 taichong 太衝
LR4 zhongfeng 中封
LR5 ligou 蠡溝
LR8 ququan 曲泉
LR13 zhangmen 章門
LR14 qimen 期門
13. Governor Vessel(GV) 督脈
GV1 changqiang 長強
GV3 yaoyangguan 腰陽関
GV4 mingmen 命門
GV9 zhiyang 至陽
GV12 shengzhu 身柱
GV13 taodao 陶道
GV14 dazhui 大椎
GV15 yamen あ門
GV16 fengfu 風府
GV20 baihui 百会
GV23 shangxing 上星
GV25 suiliao 素りょう
GV26 shuigou 水溝
14. Conception Vessel(CV) 任脈
CV3 zhongji 中極
CV4 guanyuan 関元
CV6 qihai 気海
CV8 shenque 神闕
CV9 shuifen 水分
CV10 xiawan 下かん
CV12 zhongwan 中かん
CV13 shangwan 上かん
CV14 juque 巨闕
CV17 danzhong だん中
CV22 tiantu 天突
CV23 lianquan 廉泉
CV24 chengjiang 承漿
15. Extra Points* 奇穴
EX-HN1 sishencong 四神聰
EX-HN3 yintang 印堂
EX-UE7 yaotongdian 腰痛点
EX-UE9 baxie 八邪
EX-UE10 sifeng 四縫
X-UE11 shixuan 十宣
EXHN4 yuyao 魚腰
EX-HN5 taiyang 太陽
EX-LE4 neixiyan 内膝眼
EX-LE6 dannang 胆嚢
EX-LE7 lanwei らん尾
EX-LE10 bafeng 八風
EX-B1 dingchuan 定喘
EX-B2 jiaji 夾脊
*HN:頭部および頚部 B:背部 U:上肢 LE:下肢
太字で下線のある経穴(LU9 taiyuan太淵、ST1 chengqi承泣、SP11 jimen箕門、BL1 jingming晴明、GV15 yamenあ門、GV16 fengfu風府、CV22 tiantu天突)は、鍼灸の安全性の章において、使用にあたって危険性があり、特殊な技術と経験を要するものとして挙げられている。
第2節 鍼の安全性に関するガイドライン
鍼治療の安全性実用面でいえば、一般に鍼治療は、禁忌や合併症の少ない安全な施術である。最も一般的な鍼治療は皮膚に鍼を刺入するもので、皮下注射や筋肉注射などに類似している。しかしながら、その行為には、少ないながら、HIVや肝炎などの患者間感染や、その他病原菌の侵入の危険性をはらんでいる。そのため鍼治療の安全性を保つには、滅菌および消毒の技術、および清潔の維持に常に注意をはらうことが要求されるのである。
また、鍼師はその他の、予期せぬ危険性についても念頭において対処するべきである。それらは、折鍼、逆効果、痛みや不快感、重要臓器への不慮の傷害などであり、そしてもちろん、“鍼”の範疇に入れられるその他の治療形態(*)に伴う危険も含むのである。
そして最後に、鍼師の技術の未熟さにともなう危険も考えられる。これらは、不適切な患者選択や、技術的な誤り、禁忌や合併症に対する認識不足、もしくは、それらが起こったときの対処の不適切さなどのことである。* 鍼治療は、刺鍼以外にも、指圧や、電気鍼、レーザー鍼、灸、吸角、擦過、磁石療法なども含む。
1.感染の防止
皮下注射や筋肉注射などと同様に、鍼治療における感染対策は;
・ 清潔な施術環境
・ 施術者の清潔な手指
・ 施術野の処理
・ 鍼や器具の滅菌および適切な管理
・ 無菌的な手法
・ 鍼や消毒綿花の注意深い廃棄
などが重要である。1.1 清潔な施術環境
施術の場所は汚れやほこりの無い状態で、滅菌済の器具が置けるように滅菌した布で覆った治療台など、専用の作業野を設けるべきである。そしてこれらの器具(鍼のシャーレや綿球、綿棒、70%アルコールなど)は使用するまで滅菌した布で覆っておくのが望ましい。また施術室全体に、十分な照明と換気がゆきとどいている必要がある。
1.2 清潔な手指
施術者は、患者を治療する前には常に手指を洗浄するべきである。そして施術直前に再度手指を洗浄することが感染防止に重要であり、洗浄にあたっては、石鹸を泡立てながら手指や爪を十分にこすり、流水で15秒間かけて洗い流した後、清潔な紙タオルで水分をふき取るようにする。
多くの鍼灸師は施術野の処理(消毒)をした後にその部を触診する。このような場合には、(施術直前に)指先を再度十分にアルコール綿で清潔にする必要がある。手術用グローブや指サックの使用は、患者や施術者を保護するために推奨されるべき方法であり、特に施術者の指に傷がある場合には使用するべきである。また施術者の手指に感染創のある場合にはその治癒を待って施術するべきである。1.3 施術野の準備
鍼治療の施術野は、清潔で、創傷や感染などのないことが必要である。鍼を刺入しようとする部位は、70%エチルアルコールもしくは70%イソプロピルアルコールに浸した綿花を用いて、施術中心部から円を描くように拭き、アルコールを乾かすようにする。
1.4 鍼および器具の滅菌と管理
滅菌は全ての種類の鍼(毫鍼、梅花鍼、七星鍼、皮内鍼、円皮鍼など)および使用後の吸角用のカップやその他の器具(シャーレ、ピンセット、鍼管、綿球、綿棒など)に必要である。
あらゆる場合においてディスポーザブルの鍼および鍼管を使用することが望ましい。しかしながら、これらディスポーザブル鍼を使用することで、他の清潔操作までおろそかになってしまわないように注意する必要がある。ディスポーザブル鍼はすべて、使用直後に専用の容器に廃棄するべきである。
一本の毫鍼は、一回の刺入にとどめるべきである。梅花鍼や七星鍼はひとりの患者には何箇所か刺激してもよいが、他の患者に使用する前には滅菌するか、使い捨てのものを用いるべきである。滅菌手順は付録に示されたように行うべきである。施術者はこれらの手順の確認の責任がある。
再使用する鍼や他の器具は、使用直後に適切な化学消毒剤に浸し、その後洗浄剤入りの水または水に浸したのち、水洗いし包装して滅菌する。
滅菌済のパックは、安全で清潔な場所に保管し、十分に換気し多湿を避け、かびの発生を防ぐようにする。保管期限は、包装の種類によってさまざまである。鍼は試験管に入れ、綿花でふたをして滅菌後7日以内の使用期限を明記したラベルをつけて保管する。しかし保管方法が適切でなければ滅菌の有効期限は早くなる。包装の完全さを使用前に確認することが重要である。滅菌済の鍼でもシャーレに出されたものは、シャーレが汚染されている可能性があるのでその日のうちに滅菌する必要がある。1.5 無菌的な手法
鍼体は、刺入前には滅菌状態でなければならない。そして鍼は、施術者の手指が触れないように扱う必要がある。鍼に触れないように刺入することが困難な長い鍼を使用する場合 ―例えば環跳(GB 30)や、秩辺(BL 54)への刺入時など― ならば、鍼柄を保持し、鍼体は綿球もしくはアルコール綿花の上から保持するようにする。手術用グローブや、指サックを用いれば鍼の汚染はより回避しやすい。
抜針に際しては、滅菌綿花を用いて刺鍼部位を押さえるようにするとよい。これによって刺入部位への病原体の侵入を避けることができるし、施術者が使用済の鍼や患者の体液に触れないですむ。刺入部位を押さえるたにもちいた綿球などが血液や患者の体液で汚染された場合には専用の容器にそれらを廃棄しなければならない。2.禁忌
鍼の調節機能という観点から考えれば、本療法の絶対的な禁忌を規定するのは困難である。しかしながら、安全性を重視するならば、以下の状態での治療は避けるべきである。
2.1 妊娠
鍼刺激は陣痛を誘発する可能性があるので、妊婦には用いるべきではない。他の目的で治療がどうしても必要なときには十分な注意が必要である。
特定の経穴に特定の方法で刺鍼がなされたときに強い子宮の収縮が起こり、流産を促す可能性がある。しかしながらこのような刺激は妊婦において陣痛を促進したり、出産時間を短縮するために利用できるものである。
伝統的に、妊娠第一期までは下腹部や腰仙部の経穴への施鍼や施灸は禁忌とされている。3ヶ月以降は、上腹部や腰仙部の経穴や、強い響きの起こる部位への治療を耳鍼点と併用することは、陣痛促進の可能性があるので避けるべきである。2.2 救急事態もしくは手術を必要とする場合
鍼治療は救急療法としては禁忌である。このような場合、応急処置をして、救急病院に患者を送る必要がある。
鍼治療は、外科手術の代用として用いられるべきではない。2.3 悪性腫瘍
鍼治療は悪性腫瘍に用いられるべきではない。特に腫瘍への直接刺激は避けるべきである。しかしながら、鍼治療は患者の生活の質を高める目的で、疼痛やその他の症状の緩和、または化学療法や放射線療法の副作用の軽減など、他の医療の補助として利用できる可能性がある。
2.4 出血性の疾患
鍼治療は出血性もしくは凝血性の疾患、または抗凝血治療中か抗凝血剤使用中の患者には用いるべきではない。
3. 事故および逆効果
3.1 鍼の質
鍼の材料としてステンレスが用いられている。それぞれの鍼は使用前に十分チェックする必要がある。もし鍼が曲がっていたり、侵蝕されていたり、また鍼尖が曲がったり鈍になっている場合には、その鍼は欠陥があるとみなして廃棄するべきである。
鍼の製造技術の質は国の保健機関によって監視されていることが望ましい。3.2 患者の体位
患者は刺鍼前には快適な姿勢を保持し、治療中にも不意な体動は避けるべきである。
3.3 失神
鍼治療中にしばしば患者が失神することがある。それゆえ鍼刺入の手順や刺鍼感覚など、失神をおこしそうな要因の説明を十分に治療前にすることが必要である。これらのことから、患者にとって初めての鍼治療は臥位で行い、穏やかな手技を用いるべきである。患者の顔色や脈などを注意深くチェックし、鍼の逆効果をなるべくはやく発見する必要がある。また太衝(LR3)への刺鍼など、低血圧などを引き起こす可能性のある経穴への刺激には特別な注意が必要である。
失神の前兆としては、気分不快、めまい、周囲の景色の動揺、脱力感などがある。胸部のしめつけ感や動悸、悪心や、ときに嘔吐などがつづいて起こる可能性もある。顔色は通常蒼白で、脈は弱い。ひどい例では四肢の冷感や冷汗、血圧下降、意識不明なども起こり得る。このような反応は普通精神的緊張や、空腹、疲労、虚弱、不適切な体位や過度の刺激が誘因となる。
もし警戒するべき徴候が現れたら、すぐに鍼を抜いて患者を臥位にして、頭部を低くして下肢をもちあげる。これは患者の症状がおそらく一過性の脳血流の供給不足と考えられるからである。そのようなときには患者に温かい飲み物を与えるのがよい。こうした症状は普通しばらく休めば改善する。症状がつよい場合には応急処置が必要で、患者の症状が比較的安定している場合には、以下の治療を試みるのもよい。・ 爪による水溝穴(GV26)の圧迫刺激もしくは鍼による水溝(GV26)、中衝(PC6)、素リョウ (GV25)、内関(PC6)、足三里(ST36)などの刺激または、
・ 百会(GV20), 気海(CV6)、関元(CV4)への灸。
患者は通常即座にこれらの方法に反応する。しかしもし症状が変わらなければ救急医療の必要がある。3.4 痙攣発作
すべての患者には痙攣発作の既往があるかどうかを確認する必要がある。既往のある患者では、治療中に注意して観察する必要がある。もし発作が起こったら施術者はすべての鍼を抜き、応急処置をしなければならない。もし患者の状態がすぐに安定しなかったり、痙攣がつづくような場合には救急医療施設に患者を送るべきである。
3.5 痛み
[刺入時の痛み]
鍼刺入時の痛みは通常不注意な手技もしくは不良鍼尖(かぎ状に曲がっているか鈍くなっているもの)、または太い鍼によって起こることが多い。
多くの場合、熟練した早い刺入であれば痛みは起こらない。正しい技術と最適な刺激量は実習にて修得するべきである。いくつかの器具 −例えば鍼管の使用(切皮に際して刺激部位のところで鍼の保持に役立つ)― や、弾入法(鍼尖を刺入部においた状態で、鍼柄をゆるめに保持し、もう一方の手の中指か示指を用いて鍼柄を弾いて刺入する方法)などの手技を用いることによってスムーズで早い刺入を容易にすることができる。鍼刺激独特の、鈍痛またはうずくような、あるいは重いような、感覚の、“鍼感”は、気が得られたこと(得気)を意味する。このような感覚は痛みとは区別されるべきである。[刺入後の痛み]
鍼が深部組織に刺入された時の痛みは痛覚神経の受容器を刺激した場合に起こるので、このようなときには鍼を皮下までもどし、方向を変えて再度刺入を試みる。
鍼が広い振幅で回旋されたときや、雀啄されたときに起こる痛みは、通常、繊維組織が鍼に巻きついて起こる。このような痛みをとるには繊維が緩むまで鍼を穏やかに逆方向に回旋させるようにする。
鍼が留置された状態で起こる痛みは、患者が動いた際に鍼が湾曲して起こることが多いので、元の体位に戻れば軽減される。[抜鍼後の痛み]
抜鍼後に起こる痛みは技術不足か過度の刺激によって起こることが多い。軽度な例では、痛みの部位を圧迫し、痛みが強い場合には、圧迫に加えて灸刺激を行うとよい。3.6 渋鍼
しばしば鍼刺入後に回旋や雀啄ができなくなり、ときには抜鍼さえも困難になる場合がある。これらは筋攣縮や、過度の回旋、一方向への回旋などによって周囲の筋繊維が鍼体に巻きつくか、患者の体動によるものである。
この場合、患者をリラックスさせなければならない。もし原因が一方向への過度の回旋にあるならば、鍼を逆方向に回旋させることでその状態を緩和することができる。もし渋鍼が筋攣縮によるものならば、そのまま鍼をしばらく放置し、その後鍼を回旋しながら抜き取るか、もしくは患者の気をそらす目的で刺入部の周囲をマッサージしたり、周辺に(新たな)鍼を刺入するのがよい。もし患者の体動によって渋鍼が起こった場合には、体動前の姿勢にもどし、鍼を抜きとるようにする。3.7 折鍼
低質な鍼製造技術や鍼体と鍼柄の接合部の浸蝕、患者の不意な体動による強い筋攣縮、渋鍼や曲がった鍼の不適切な抜き取り、もしくは長時間にわたる直流電流の使用は折鍼につながる。
もし、刺入中に鍼が曲がったら、抜鍼して鍼を交換するべきである。鍼の操作−特に雀啄など−にあたっては、過度の力を加えてはいけない。鍼柄と鍼体の接合部分は、破損しやすい部位である。それゆえ、鍼体の4分の1か3分の1くらいの長さ分は常に皮膚から出ているようにしなければならない。
もし鍼が折れたら、まず患者に落ち着くように言って、鍼の断端がそれ以上深い組織に入るのをふせぐようにする。もし折れた針の一部が皮膚の上にまだ残っているようならば、それをピンセットでつまんで引き抜くとよい。鍼の端が皮膚表面の深さにあれば、周囲の皮膚を、断端が現れるまでやさしく押さえて、断端をピンセットでつまんで抜き取る。もし折れた鍼が完全に皮下にあるようならば、患者に元の体位をとらせれば鍼が現れる場合がある。
以上の手順がうまくいかない場合は、手術による除去が必要となる。3.8 局所の感染
怠慢な殺菌操作が、局所の感染を引き起こすことがあり、とくに耳鍼療法などではこのような状態をおこしやすい。もしこのような感染が起こった場合には、ただちに適切な処置をするか、患者を医療機関へ紹介する必要がある。
3.9 施灸時の火傷
間接灸に際しては火傷に注意しなければならない。有痕灸は皮膚を焼くことで非細菌性の化膿を引き起こすが、このような方法は、十分な知識と患者への事前の説明のもとに行われなければならない。これは特定の部位にのみ行われる特殊な治療法である。
直接灸は、顔面や、腱または大血管のある部位には用いるべきではない。関節付近で、化膿を起こすような有痕灸は、関節の動きによって化膿が直りにくくなるので避けるべきである。意識レベルが低いか、知覚障害または精神傷害のある患者への施灸、あるいは化膿性皮膚炎もしくは循環傷害のある部位への施灸は避けるべきである。4.電気刺激およびレーザー治療
電気療法は有害な刺激となり得る。この刺激は妊婦や、患者がペースメーカーを使用している場合、知覚脱失のある場合、循環傷害のある場合、重篤な動脈疾患のある場合や、原因不明の発熱、強い皮膚病変のある場合などには禁忌である。
神経の傷害を避けるには、電気刺激を注意深く監視をするべきである。直流通電はごく短い時間のみ使用されるべきである。
低出力レーザー治療は、眼を傷害する可能性があるので、患者も施術者も防護メガネを着用するべきである。5.重要臓器の傷害
正しく適用されれば、鍼はいかなる臓器も傷害しない。しかしながら、もし傷害が起こった場合には、重篤な問題となりやすい。
鍼治療の経穴は多数あり、いくつかは危険性がほとんどないか、あっても少ないが、なかには施術者の技術不足か経験不足のために重篤な傷害を引き起こす可能性のある場所もある。
鍼のプログラムは習得者の能力別に組まれているので、習得者それぞれの知識、能力、経験などに合わせて教育がなされる。初歩的なレベルでは、治療経穴の選択はかぎられ、高度なレベルでは、選択の幅は広くなるが、それでもなお、治療点の選択や手技は経験の豊富さに左右される。
以下に重篤な傷害を起こす可能性のある経穴の例を挙げる。いかなる治療方法も、その効果の代償として起こり得るリスクを考慮する必要がある。5.1 刺鍼を避けるべき部位
特定の場所、たとえば新生児の大泉門、外生殖器、乳頭、臍部、眼球などには刺鍼してはならない。
5.2 予防措置
重要臓器付近への刺鍼に際しては、特に注意が必要である。使用される鍼や刺入部位および深度、使用手技や、刺激などの特性によっては治療中に事故が起こる可能性がある。多くの場合、しかるべき予防措置がとられた場合には事故は回避できる。もしそれらが起こった場合には、鍼師は事態の悪化を防ぐためにどのように対処すべきがを知っておく必要がある。重要臓器の傷害事故は緊急の医療処置または外科的処置を必要とする。
[胸部、背部、および腹部]
胸部、背部、または腹部にある経穴への刺鍼は注意が必要であり、できれば斜刺か横刺をすれば重要臓器への傷害は避けることができる。鍼の刺入方向や深度には十分な注意が必要である。[肺および胸膜]
胸部、背部、あるいは鎖骨上窩の経穴への深刺による肺または胸膜への傷害は外傷性肺気胸をおこす可能性がある。咳や胸痛、呼吸困難が気胸の一般的な症状で、鍼が肺を傷つけることによって施術中に急激に発症するか、あるいは鍼治療後数時間かけて症状が増強してくる場合もある。[肝臓、脾臓および腎臓]
肝臓や脾臓への刺鍼は出血、局所の疼痛や圧痛、腹筋の硬直をおこす。腎臓の刺入は腰痛や血尿を引き起こす。傷害が軽度なら、出血は自然に止まるが、もし出血が多い場合には血圧の下降が起こりショック状態となるであろう。[中枢神経系]
上部頚椎付近、たとえばあ門(GV15)または風府(GV16)などへのの不適切な手技は延髄を鍼で刺激し、頭痛、悪心、嘔吐、突然の呼吸緩徐や痙攣発作につづく見当識障害、麻痺や昏睡などを引き起こすことがある。第一腰椎以上の椎間への深刺は、脊髄を刺激し、四肢または刺鍼レベル以下の体幹部の電撃様疼痛をひきおこす場合がある。[その他]
その他刺鍼に際して危険な可能性があるため特別な技術または経験を必要とする点は、
・ 晴明(BL1)および四白(ST1)など、眼球の付近にある経穴
・ 気管の前方にある天突(CV22)
・ 頚動脈付近にある人迎(ST9)
・ 大腿動脈付近の期門(SP11)や衝門(SP12)など
・ 橈骨動脈上にある太淵(LU9)[循環器系]
感染の危険性が高い循環不全の部位(例えば静脈瘤など)への刺鍼には注意が必要であるし、出血や血腫、血管の攣縮を引き起こしたり、血管の病理的変化(たとえば動脈硬化や動脈瘤)に伴い重篤な合併症を誘発するような、(しばしば常軌を逸したような)動脈への刺鍼は避けるように注意しなければならない。一般には、表層の血管の刺鍼による出血は局所の圧迫により止まることが多い。6.診療記録
患者の記録は詳細な病歴と、臨床所見、診断データ、治療方針、および治療の効果などが含まれるべきである。そしてそれらは機密事項として扱われるべきである。
付録1. 鍼およびその他の備品の滅菌
滅菌とは芽胞(枯草菌、破傷風菌など)を含むすべての病原微生物を滅亡させることと定義される。高いレベルの消毒もほぼ全ての病原体を駆除するが、消毒前に芽胞の量が多い場合は、一部生存している可能性がある。
2. 滅菌の方法
蒸気滅菌は鍼灸鍼やその他の金属性の器具の滅菌に最も広く用いられる方法である。この方法は毒性はなく比較的安価で、胞子にも有効であり、製造者の規定した使用方法(時間、温度、圧、包装、装填数や装填場所など)に従って操作すれば迅速に滅菌できる。蒸気滅菌は、内部が、空気でなく100%の飽和蒸気で満たされた場合にのみ十分に効果がある。高圧そのものは滅菌になんの影響も与えないが、必要な高温状態を作り出すために利用される。
乾熱滅菌も鍼や、その他蒸気によって損傷されやすい器具の滅菌に用いられる。しかしこの方法は鍼自体をもろくしやすい。滅菌には高温と長い時間を要する。高圧蒸気および乾熱滅菌に必要な温度と時間を以下の表に示す。
推奨滅菌法 *高圧蒸気法(オートクレーブ、圧力鍋など)
必要圧:1平方インチあたり15ポンド
(101キロパスカル)温度
115℃
121℃
126℃
134℃時間
30分
15分
10分
3分
*乾熱法(電気オーブンなど) 温度
160℃
170℃
180℃時間
120分
60分
30分
(WHO-GPA/TCO/HCS/95/16 p.15 より引用)ゴムやプラスチックなどでできた器具など、高温となるオートクレーブに向いていないものは、適切な濃度と浸す時間(例えば6%の安定過酸化水素水で6時間)を守れば化学的に滅菌することが可能である。
吸角用のカップにはゴムやプラスチックよりもガラス製のほうが滅菌時の高温に耐えられるという点で適している。
鍼を煮沸することは十分な滅菌にならないことに注意しなければならない。アルコールに浸すことも同様で、これらの方法は芽胞やある種のウイルスに対して無効だからである。3. 消毒
器具を20分間煮沸すれば、高レベルの消毒は達成できる。これは滅菌機器が使用できない場合に、HIVを含むほとんどの病原体を不活化する最も簡単で信頼できる方法である。煮沸は蒸気滅菌や乾熱滅菌ができないときにのみ用いられるべき方法である。B型肝炎ウイルスは煮沸後数分で不活化できるし、熱に対して非常に弱いHIVも2-3分で不活化することが可能である。しかし念のために煮沸は20分以上続けるべきである。
化学的な消毒は、高温によって損傷されやすい器具に用いられる方法である。多くの消毒剤は、その適用される微生物の範囲が限られており、微生物の駆逐率も消毒剤によってさまざまである。消毒の際は、付着物を取り除き完全に消毒剤に浸さなければならない。また消毒剤を洗い落とす際には、器具が汚染されないように注意する必要がある。化学的消毒剤は、不安定で化学分解しやすい。またそれらは腐食性があり、皮膚を傷害しやすいので防護服などの着用が必要である。また化学的消毒剤は煮沸や滅菌ほど信頼性は高くない。主用消毒剤を以下に示す。・ 塩素系の消毒剤、例えば漂白剤など
・ 2%グルタールアルデヒド溶液
・ 70%エチルまたはイソプロピルアルコール
(WHO-GPA/TCO/HSC/95/16 p.16, WHO AIDS series 2, 2nd edition, p.3, 1989 より引用)4. 管理
全ての滅菌器は定期的にチェックしなければならない。滅菌器への器具の装填は、製造元の説明書に従って、各包装の間に蒸気や空気が循環できるよう間隔を保つようにする必要がある。滅菌の有効性は、器具の滅菌を確認するために考案されている各表示(オートクレーブ済の表示や生物学的な滅菌済表示)などによって確認するべきである。
鍼を入れて滅菌する場合、新型の容器の使用がのぞましい。これは熱に反応する特殊な金属でできており、高温の下で空気穴が開き、75℃以下の温度で空気穴が塞がる構造になっているものである。
文書終了